2011年8月30日火曜日

23 イサム・ノグチ展

コスタメサの「カリフォルニア・シナリオ」
 
 ロサンゼルス中心部から車で1時間ほどの「ラグーナビーチ・アート・ミュージアム」で開かれている「イサム・ノグチ展」へ行った。

 イサム・ノグチ(190488年、漢字表記は野口勇)はロサンゼルス生まれの日系アメリカ人彫刻家。ほかにも画家、造園家など数多くの肩書きを持ち、慶応大学の「新万来舎」や広島の平和大橋、パリ・ユネスコ本部の庭園などを手がけた多彩な芸術家で、私の実家のある高松市内に、ゆかりの美術館「イサム・ノグチ庭園美術館」があったから、以前から親近感を感じていた。

 と、前置きは別にして、今回の個展のテーマは「ノグチ:カリフォルニア・レガシー(受け継がれたもの、遺産)」。高松の美術館で展示している作品は、地元特産の花崗岩「庵治石」で作ったものが有名だったので、石のイメージが強かったが、今回の作品展は、明りもテーマの一つ。和紙で作った大小さまざまな形のランプが、広い展示室に並べられ、やわらかな光が会場を包むのだった。特に、天井から吊るされた三角錐のランプは、どこからか運ばれる風が本体を揺らし、そのゆらめきがなんとも東洋的だった。

明りがあまりに心地よく、しばし、薄暗い部屋でたたずんでいたら、ふと、作品の横に「iPhone」のマークが。iPhoneを起動させると、説明が流れる仕組みで、雅とハイテクのミスマッチがいかにもアメリカ的で思わず苦笑してしまった。手持ちのiPhoneで説明を行く仕組み、日本の美術館にもあるんだろうか。

(作品展の雰囲気は↓の真ん中あたりに登場する動画でどうぞ)
http://lagunaartmuseum.org/noguchi-california-legacy

 暗闇が迫る中、美術館から30分くらい車を走らせて、コスタメサという街の公園「カリフォルニア・シナリオ」へ足を伸ばした。この公園は、作品展の中で写真やイラストを使って詳しく説明されていた彼の大型“作品”。広さ自体は、日本のオフィス街などにある標準的な公園とさほど変わらない印象だったが、ちょうど午後8時ごろだったということもあり、薄暗くなった敷地に噴水の明りがともり、その水音とやわらかな明りが、街の真ん中にいることを忘れさせるのだった。敷地内には庵治石(?)の大型展示物があり、鋭角に尖ったその展示物がつるつる滑り、あまりに遊び心を誘うので、思わず滑ってきてしまった。

 公共の公園で入場料もいらないし、だれでも入れるイサム・ノグチの庭園。こんな贅沢な時間を過ごせる公園が近くにあるなんて、周辺のビジネスマンがうらやましくなった。

2011年8月16日火曜日

22  LAで阿波踊り

 久々に締め切りに追われる事態となり、更新が途絶えていました。失礼致しました。

さて、13日から全米最大の日系人イベント「ニセイ(2世)ウィーク」がロサンゼルスのダウンタウンで始まった。

 前々日、イベントのホームページ(http://www.niseiweek.org)をみているうち、その中に「阿波踊り」を発見。以前から徳島県人会の人に参加するよう誘われていたことを思い出し、「同じ行くなら、踊りゃにゃ損々」と、早速電話し、阿波踊りのパレードに参加させてもらうことにした。昨年、徳島で著名な踊りグループ「葵連」に数ヶ月間加えてもらい、毎週練習に行っていたので、「ひょっとして出番があるかも」と思って、浴衣や地下足袋、専用のズボンなどを持ってきていたのだった。 

 そして当日、グループ「阿波踊り」から集合場所として、指定されたのは、リトルトーキョーにあるその名も「小東京交番」。実態は、ロサンゼルス市警の詰め所兼日本語の話せるボランティアが常駐する案内所だそうだが、その奥にある20畳弱の控え室で、浴衣(結局、みんなと同じものを着ることになった)や帯、鉢巻など揃いのものを貸してもらい、元徳島県人会の会長さんたちに着付けてもらうことになった。
 
 踊り子約30人の大半は日本生まれと思しき日本人(日本語によどみがなかった)だったが、中には数人の米国人も。特に、米国人の方が踊りにかける思いが熱い。暇さえあれば、熱心に練習していたから、一年ぶりに踊ることになった私は刺激を受け、その場で練習を始めたところ、青い目をしたその仲間から「手はこうやって」「腰はもっと落とさないと」と指導を受けるはめになり、「実は徳島から来たんです」と告白して二人で笑い転げてしまった。
 
 さて、リトルトーキョーにはすぐそばに「全米日系人博物館」があり、その裏に舞台が設営されていて、さまざまな日本の催しが紹介されていたが、グループ「阿波踊り」は、午後3時過ぎから、来場者を前にステージで10分程度、デモンストレーションすることになった(私は出なかった)。もともと日本に関心がある人がこのイベントを見に来ているというのもあるが、終盤、司会進行役のメイさんが来場者に総踊りを呼びかけると、客席の人たちの多くは続々とステージ上や周辺へやってきて、独特のメロディー「よしこの」にあわせ、ぎこちないながら、楽しそうに手を挙げ、足を繰り出すのだった。その様は、徳島市内の観光施設「阿波おどり会館」で見かける県外者の楽しみようと同じで、やはり阿波踊りは国境を越え、踊りの魅力は伝わるらしい。

 そのステージも終わり、一息つくと、今度は歩いて5分程度の日本料理屋などが集まる「ホンダプラザ」に移動。ここを起点に、この日のメーンイベントであるパレードが始まった。 

スタイルとしては、本場のような三味線や太鼓、鉦を演奏する部隊はなく、代わりにスピーカーから録音した独特のお囃子「よしこの」が流れ、ひたすら官庁街の一画を約1時間かけて一周するスタイルだった。「1時間踊り続ける」と最初に聞いたときは、正直腰や足が持つか不安だったが、前のグループが詰まるので、頻繁に踊りは止まり、休憩になった上、通りが広く長いので、沿道の顔ははっきり見えず、緊張せずに済んだ。

 踊り自体は、徳島でも踊りグループ「連」によって踊り方が全く異なるが、このグループの踊り方は「葵連」で教わったのとほぼ同じで、踊り出しだけ、左右に斜め45度の角度で3歩進んでから正面に向かって歩き出す、というのが違うだけだった。
 
 パレードは阿波踊り以外にも、日本の各種祭りや伝統えを紹介しており、沿道には日の高いうちから椅子を並べて場所取りしている高齢の日系人もいて、パレードへの関心が伺えた。

 そのパレードで踊り終えたのは、夜もとっぷり暮れた8時半ごろ。帰ろうとしたら、今度は全米日系人博物館前の広場で、即席の阿波踊りが始まった。パレードのとき、私たちグループの前を歩いていた福岡県人会の「小倉祇園太鼓」のメンバーが阿波踊りの「よしこの」を演奏してくれることになり、阿波踊りのメンバーはもちろん、福岡県人会の人や米国人などがみんなで輪になって、イベントの終わりを惜しむように、いつまでも踊り続けていた。 
 
 ロサンゼルスの夏は最高気温が25度前後。この日の夜も暑くはなかったが、熱気のこもった熱い夜だった。
パレードは踊っていて写せなかったのでステージ版

2011年8月1日月曜日

21 元気にやっております

 ようやく入手した愛車「GOLF」のおかげで、それこそ羽の生えたゴルフボールのように、自由に飛びまわれるようになり、合気道も夜のクラスまで参加するようになった。帰宅後ソファでまどろんでいたら、緊張続きの運転や合気道の疲れでいつの間にか眠りこけてしまう日が続き、ブログ更新が止まっていた。心配して、何件か、日本から電話がかかってきたほど(せっかく読んでくださっている皆様、すみません)。というわけで久々のブログ更新である。
 さて、なかなかブログが進まないうち、夏学期に聴講していた授業「日本文化」が先週終わった。週2回の集中講義は、毎回、鎌倉、室町、江戸など1、2時代ずつテキストに加え、YouTubeやウィキペディアから取り出した映像や音楽をもとに、時代ごとの文化を紹介したり、縄文時代の食事レシピが登場したりした。吉野ヶ里遺跡のビデオを見せながら、卑弥呼を考証し、戦国時代で「雨月物語」の映画を上映したこともあった。しかし、現代版では、なぜかYouTubeから取られた謝罪文化が出てきて
「土下伏せ」「土下埋まり」という見たこともない所作がスクリーンに映し出され、生徒たちが爆笑していた。よほど、挙手して撤回しようかと思ったが、私の知識不足かもしれないので、苦々しい思いで見続けた。
 さて、この授業で興味深かったのは、第二次世界大戦直後の進駐軍の時代だ。中学、高校の歴史科目では、それ以前の時代に時間をかけ過ぎて、戦後についてはかなりスキップして習ったが、この授業では、全314ページのテキストのうち、8ページにわたって、進駐軍がいかに混乱した日本の復興に貢献したかが綴られていて、現代史の教育に力を入れていた。もちろん、このテキストは大学生が使うものだから、単純比較はできないが、その分量が、勝ち誇った「占領する者」と早く記憶の底にうずめてしまいたい「占領される者」の意識の違いのようにも思えた。
 この授業を受けながら、思い出したのが、5月に大学の近くの蚤の市で手にいれた小皿である。皿の裏の刻印は「MADE IN OCCUPIED JAPAN」。進駐軍の時代に国内で作られた皿だ。12センチ四方のその小皿の中心部には花柄が描かれているが、青色の花や絵柄からはみ出した絵の具、目の覚めるような緑色の縁・・・。雰囲気が日本向けとは違う。
焼き物の国際ルールによるのかもしれないが、刻印がMADE INUSA」ではなく「JAPAN」でもなく、「OCCUPIED JAPAN」。職人はどんな気持ちでこの「OCCUPIED」を刻み続けていたのだろう。手書きの刻印は縦6ミリ、横10ミリに描かれ、写真を撮るのに苦労したくらい小さく、現代の刻印の基準から言えば、まるで隠すように書かれていた印象だ。
占領期は1945年から52年までだから、小皿はもう60年ほど前のもの。その間、日米関係は大きく変わった。
そして、気がつけば、今日から8月。また、終戦記念日の月がやってきた。

     蚤の市で見つけた小皿(写真上)と、刻印が書かれた小皿の裏(同下)