2011年9月2日金曜日

24 夏はもう終わり?

いよいよ9月に突入した。アメリカでは今月から新学期がスタートする。そして、私の滞在期間は今月が折り返し。時が経つのは本当に早いものだ。

 8月、大学は夏休みモードで、のんびりしてはいたものの、久々に今月2日発売の「週刊金曜日」に米国の日本人看護師事情を1ページ書きました。お読み頂ければ幸いです。

さて、さて。この夏はよく出かけた。今回はその中から、3つのイベント紹介の巻。
 
<インドネシア領事館の祭り>
 7月16日、コリアンタウンにあるインドネシア領事館で、年に一度のインドネシア祭りが開かれた。この日は領事館の東隣にあるマリポサ通りにインドネシアの料理や衣料品などの屋台が並び、普段は閉鎖している領事館の駐車場に大型ステージも設けられて、民族音楽ガムランの演奏や踊りなどが披露された。

私も週に一度、この領事館で習っているガムラン教室のメンバーとして、イベントに出演することになり、民俗衣装の腰巻を借り、マリポサ通りに設けられた舞台で演奏させてもらうことになった。

担当したのは掌大の「クレナン」と呼ばれる突起の付いたゴング。一定のリズムで叩き続けるが、譜面がない上、全リズムのベースを作るため、内心冷や冷や。何層もの聴衆に囲まれていたが、演奏に気をとられ、聴衆の目に緊張するどころではなかった。残念ながら、演奏していたので、写真はなし。紹介しているのは、この日、別のステージで演奏したプロの先輩たち。

当日、ロサンゼルスでは高速道路405号の破壊工事による大規模な通行止めがあり、多くの人は外出を控え、市の中心部に近寄らないようにしていたにもかかわらず、一帯はインドネシア人と思われる来場者であふれ、この日を待ちわびる彼らの気持ちが伝わってきた。

私が担当したのは真ん中の女性が叩いているゴングを一回り小さくしたもの

<オレンジ郡のカウンティフェア>
「カウンティフェア」とは「郡農産物品評(共進)会」の訳で、郡主催のお祭り。いくつかの郡で開催され、ロサンゼルス郡でも9月3日から10月2日まで開かれるが、出かけたのはオレンジ郡のカウンティフェア(開催は7月15日~8月14日)。日本の小さな町が一つ入りそうなくらい巨大な敷地で、ウィキペディアによれば、全米でいくつかあるカウンティフェアのうち、ここのものは全米で9番目(2010年)の規模を誇り、今年は135万人が訪れたそうだ。

豚や牛などの家畜コーナーや、野菜、花などの農産物コーナーに加え、共和党や民主党の勧誘ブース、有権者登録機械の設置のほか、ジャズステージ、ジャットコースターや観覧車などの遊園地コーナーと、硬いものから軟らかいものまで幅広く、ここへいけば、何でもそろうイベントのスーパーマーケットといった感じ。夏の一日、高齢者から幼児までじっくり楽しめる仕掛けだった。

赤のテントは諸々の屋台。移動式遊園地なのに大型遊具が多かった
  
<ロングビーチのジャズフェスティバル>
8月12-14日にロングビーチのレインボー・ラグーンという公園で開かれたジャズフェスティバル。普段は湖を囲むような公園だが、期間中は会場一帯がフェンスで囲まれ、特設の大型コンサート会場に変身。会場には屋台もあったが、多くの人は飲み物や食べ物を持参して、これまた自分たちで持ってきたキャンプ用の椅子に腰掛け、著名なジャズミュージシャンの演奏に合わせ、踊りだすのだった。ハリウッドボウルも自分たちが食べ物を持ってきて楽しむスタイルではあったが、この会場はそれ以上に、自由度が高く、各自が自分たちのスタイルで自分たちのペースをキープしながら、同じ音楽を共有して楽しんでいた。

ジャズということもあってか、圧倒的にアフリカン・アメリカンが多く、中にはコケイジャンもいたが、アジア系がかなり少ないのが印象的だった。別に一帯はアフリカン・アメリカンが多い地域というわけではないらしいが。

そばに座っていたアフリカン・アメリカンのダンスやリズムの取り方を見ながら、彼らは生来のミュージシャンなのだと、またまた感動してしまった。

持ち寄った椅子でリラックスしながら演奏に聞き入る来場者

2011年8月30日火曜日

23 イサム・ノグチ展

コスタメサの「カリフォルニア・シナリオ」
 
 ロサンゼルス中心部から車で1時間ほどの「ラグーナビーチ・アート・ミュージアム」で開かれている「イサム・ノグチ展」へ行った。

 イサム・ノグチ(190488年、漢字表記は野口勇)はロサンゼルス生まれの日系アメリカ人彫刻家。ほかにも画家、造園家など数多くの肩書きを持ち、慶応大学の「新万来舎」や広島の平和大橋、パリ・ユネスコ本部の庭園などを手がけた多彩な芸術家で、私の実家のある高松市内に、ゆかりの美術館「イサム・ノグチ庭園美術館」があったから、以前から親近感を感じていた。

 と、前置きは別にして、今回の個展のテーマは「ノグチ:カリフォルニア・レガシー(受け継がれたもの、遺産)」。高松の美術館で展示している作品は、地元特産の花崗岩「庵治石」で作ったものが有名だったので、石のイメージが強かったが、今回の作品展は、明りもテーマの一つ。和紙で作った大小さまざまな形のランプが、広い展示室に並べられ、やわらかな光が会場を包むのだった。特に、天井から吊るされた三角錐のランプは、どこからか運ばれる風が本体を揺らし、そのゆらめきがなんとも東洋的だった。

明りがあまりに心地よく、しばし、薄暗い部屋でたたずんでいたら、ふと、作品の横に「iPhone」のマークが。iPhoneを起動させると、説明が流れる仕組みで、雅とハイテクのミスマッチがいかにもアメリカ的で思わず苦笑してしまった。手持ちのiPhoneで説明を行く仕組み、日本の美術館にもあるんだろうか。

(作品展の雰囲気は↓の真ん中あたりに登場する動画でどうぞ)
http://lagunaartmuseum.org/noguchi-california-legacy

 暗闇が迫る中、美術館から30分くらい車を走らせて、コスタメサという街の公園「カリフォルニア・シナリオ」へ足を伸ばした。この公園は、作品展の中で写真やイラストを使って詳しく説明されていた彼の大型“作品”。広さ自体は、日本のオフィス街などにある標準的な公園とさほど変わらない印象だったが、ちょうど午後8時ごろだったということもあり、薄暗くなった敷地に噴水の明りがともり、その水音とやわらかな明りが、街の真ん中にいることを忘れさせるのだった。敷地内には庵治石(?)の大型展示物があり、鋭角に尖ったその展示物がつるつる滑り、あまりに遊び心を誘うので、思わず滑ってきてしまった。

 公共の公園で入場料もいらないし、だれでも入れるイサム・ノグチの庭園。こんな贅沢な時間を過ごせる公園が近くにあるなんて、周辺のビジネスマンがうらやましくなった。

2011年8月16日火曜日

22  LAで阿波踊り

 久々に締め切りに追われる事態となり、更新が途絶えていました。失礼致しました。

さて、13日から全米最大の日系人イベント「ニセイ(2世)ウィーク」がロサンゼルスのダウンタウンで始まった。

 前々日、イベントのホームページ(http://www.niseiweek.org)をみているうち、その中に「阿波踊り」を発見。以前から徳島県人会の人に参加するよう誘われていたことを思い出し、「同じ行くなら、踊りゃにゃ損々」と、早速電話し、阿波踊りのパレードに参加させてもらうことにした。昨年、徳島で著名な踊りグループ「葵連」に数ヶ月間加えてもらい、毎週練習に行っていたので、「ひょっとして出番があるかも」と思って、浴衣や地下足袋、専用のズボンなどを持ってきていたのだった。 

 そして当日、グループ「阿波踊り」から集合場所として、指定されたのは、リトルトーキョーにあるその名も「小東京交番」。実態は、ロサンゼルス市警の詰め所兼日本語の話せるボランティアが常駐する案内所だそうだが、その奥にある20畳弱の控え室で、浴衣(結局、みんなと同じものを着ることになった)や帯、鉢巻など揃いのものを貸してもらい、元徳島県人会の会長さんたちに着付けてもらうことになった。
 
 踊り子約30人の大半は日本生まれと思しき日本人(日本語によどみがなかった)だったが、中には数人の米国人も。特に、米国人の方が踊りにかける思いが熱い。暇さえあれば、熱心に練習していたから、一年ぶりに踊ることになった私は刺激を受け、その場で練習を始めたところ、青い目をしたその仲間から「手はこうやって」「腰はもっと落とさないと」と指導を受けるはめになり、「実は徳島から来たんです」と告白して二人で笑い転げてしまった。
 
 さて、リトルトーキョーにはすぐそばに「全米日系人博物館」があり、その裏に舞台が設営されていて、さまざまな日本の催しが紹介されていたが、グループ「阿波踊り」は、午後3時過ぎから、来場者を前にステージで10分程度、デモンストレーションすることになった(私は出なかった)。もともと日本に関心がある人がこのイベントを見に来ているというのもあるが、終盤、司会進行役のメイさんが来場者に総踊りを呼びかけると、客席の人たちの多くは続々とステージ上や周辺へやってきて、独特のメロディー「よしこの」にあわせ、ぎこちないながら、楽しそうに手を挙げ、足を繰り出すのだった。その様は、徳島市内の観光施設「阿波おどり会館」で見かける県外者の楽しみようと同じで、やはり阿波踊りは国境を越え、踊りの魅力は伝わるらしい。

 そのステージも終わり、一息つくと、今度は歩いて5分程度の日本料理屋などが集まる「ホンダプラザ」に移動。ここを起点に、この日のメーンイベントであるパレードが始まった。 

スタイルとしては、本場のような三味線や太鼓、鉦を演奏する部隊はなく、代わりにスピーカーから録音した独特のお囃子「よしこの」が流れ、ひたすら官庁街の一画を約1時間かけて一周するスタイルだった。「1時間踊り続ける」と最初に聞いたときは、正直腰や足が持つか不安だったが、前のグループが詰まるので、頻繁に踊りは止まり、休憩になった上、通りが広く長いので、沿道の顔ははっきり見えず、緊張せずに済んだ。

 踊り自体は、徳島でも踊りグループ「連」によって踊り方が全く異なるが、このグループの踊り方は「葵連」で教わったのとほぼ同じで、踊り出しだけ、左右に斜め45度の角度で3歩進んでから正面に向かって歩き出す、というのが違うだけだった。
 
 パレードは阿波踊り以外にも、日本の各種祭りや伝統えを紹介しており、沿道には日の高いうちから椅子を並べて場所取りしている高齢の日系人もいて、パレードへの関心が伺えた。

 そのパレードで踊り終えたのは、夜もとっぷり暮れた8時半ごろ。帰ろうとしたら、今度は全米日系人博物館前の広場で、即席の阿波踊りが始まった。パレードのとき、私たちグループの前を歩いていた福岡県人会の「小倉祇園太鼓」のメンバーが阿波踊りの「よしこの」を演奏してくれることになり、阿波踊りのメンバーはもちろん、福岡県人会の人や米国人などがみんなで輪になって、イベントの終わりを惜しむように、いつまでも踊り続けていた。 
 
 ロサンゼルスの夏は最高気温が25度前後。この日の夜も暑くはなかったが、熱気のこもった熱い夜だった。
パレードは踊っていて写せなかったのでステージ版

2011年8月1日月曜日

21 元気にやっております

 ようやく入手した愛車「GOLF」のおかげで、それこそ羽の生えたゴルフボールのように、自由に飛びまわれるようになり、合気道も夜のクラスまで参加するようになった。帰宅後ソファでまどろんでいたら、緊張続きの運転や合気道の疲れでいつの間にか眠りこけてしまう日が続き、ブログ更新が止まっていた。心配して、何件か、日本から電話がかかってきたほど(せっかく読んでくださっている皆様、すみません)。というわけで久々のブログ更新である。
 さて、なかなかブログが進まないうち、夏学期に聴講していた授業「日本文化」が先週終わった。週2回の集中講義は、毎回、鎌倉、室町、江戸など1、2時代ずつテキストに加え、YouTubeやウィキペディアから取り出した映像や音楽をもとに、時代ごとの文化を紹介したり、縄文時代の食事レシピが登場したりした。吉野ヶ里遺跡のビデオを見せながら、卑弥呼を考証し、戦国時代で「雨月物語」の映画を上映したこともあった。しかし、現代版では、なぜかYouTubeから取られた謝罪文化が出てきて
「土下伏せ」「土下埋まり」という見たこともない所作がスクリーンに映し出され、生徒たちが爆笑していた。よほど、挙手して撤回しようかと思ったが、私の知識不足かもしれないので、苦々しい思いで見続けた。
 さて、この授業で興味深かったのは、第二次世界大戦直後の進駐軍の時代だ。中学、高校の歴史科目では、それ以前の時代に時間をかけ過ぎて、戦後についてはかなりスキップして習ったが、この授業では、全314ページのテキストのうち、8ページにわたって、進駐軍がいかに混乱した日本の復興に貢献したかが綴られていて、現代史の教育に力を入れていた。もちろん、このテキストは大学生が使うものだから、単純比較はできないが、その分量が、勝ち誇った「占領する者」と早く記憶の底にうずめてしまいたい「占領される者」の意識の違いのようにも思えた。
 この授業を受けながら、思い出したのが、5月に大学の近くの蚤の市で手にいれた小皿である。皿の裏の刻印は「MADE IN OCCUPIED JAPAN」。進駐軍の時代に国内で作られた皿だ。12センチ四方のその小皿の中心部には花柄が描かれているが、青色の花や絵柄からはみ出した絵の具、目の覚めるような緑色の縁・・・。雰囲気が日本向けとは違う。
焼き物の国際ルールによるのかもしれないが、刻印がMADE INUSA」ではなく「JAPAN」でもなく、「OCCUPIED JAPAN」。職人はどんな気持ちでこの「OCCUPIED」を刻み続けていたのだろう。手書きの刻印は縦6ミリ、横10ミリに描かれ、写真を撮るのに苦労したくらい小さく、現代の刻印の基準から言えば、まるで隠すように書かれていた印象だ。
占領期は1945年から52年までだから、小皿はもう60年ほど前のもの。その間、日米関係は大きく変わった。
そして、気がつけば、今日から8月。また、終戦記念日の月がやってきた。

     蚤の市で見つけた小皿(写真上)と、刻印が書かれた小皿の裏(同下)

2011年7月22日金曜日

20 エンジンはかかった

 ようやく、運転免許の実技に受かった。一週間前、まさかの試験に落ちてから、直後に届いた車で、苦手な交差点のさばき方を集中的に練習し(国際免許があるので、こちらの免許がなくても本当は公道を走れる)、比較的スムーズに運転できるようになっていた。しかし、毎回肩は凝るし、昨日も交差点の近くでトロトロして、あやうく立ち往生しかけたばかり。おっかなびっくりの実技試験だったのだ。

さて、その試験はというと、雪辱戦ということもあって、同じ木曜日の同じ10時半に予約。家からはルームメートに運転してもらい、トーランスという街のアメリカ版陸運局DMVへ出かけた。前回はかなり愛想のいい試験官だったが、今度は少し無愛想で、ちょっと手ごわそうな予感である。

試験が始まると、コースこそ先週と似ていたが、右左折や車線変更、苦手な四方向一旦停止交差点を前以上に挑戦させられた。時間にすれば15分弱、前回より短かったはずだが、チェックは厳しくなっていた印象だ。開始前、試験官は「2回目ですね」と聞いてきたから、向こうも警戒していたのだろうか。

一通り試験が終わり、DMVへ帰ってきてから採点が始まった。試験官は、「あなた、アクセルを踏むとき、少し急ですよ。もっとゆっくり踏まないと」と言って、助手席で、何やら書いては、減点項目にチェックし始めた。それも前以上にチェックが多い。ただ、減点は15点までOKだからそれ自体は問題ない。しかし、そのチェック箇所が問題である。致命的なミスに再びチェックされれば元の木阿弥。チェックの内容はこちらから見えないが、どうやらペン先は致命傷欄のある左下には向かっていないようだ。しかし、前回より採点に時間がかかっていて、一瞬、「また、追試験か」と一気に緊張が走った。

しかし、一通り書き終えた試験官は、その紙を渡しながら、「それじゃ、合格。窓口にこの紙出しといてね」と言って、また無愛想に車から出て行ったのだった。結局、前の試験では、致命的な1回のミスを除けば減点4点だったが、今回は減点8点。致命傷が見つかれば、その段階で試験はストップらしいから、出発してすぐなら、前回の4点減点はそれ以降加算されなかっただけ、とも思えるが、前回ひっかかったのは、終了間際の交差点だったから、4点以上には増えなかったはず。運転自体、一週間前より慣れたはずなのに。試験官の性格によるのだろうか。前回が甘すぎたのだろうか。

試験官に渡された紙を窓口に提出すると、受付の女性は、A4版の紙をビリッと半分に破り、「これが一時的な免許証。正式な免許証は後日届きますんで、今日はこれで終わり。はい次の人」。DMVに到着してからその間4、50分といったところだろうか。あっさりと、仮の免許証を手にすることができた。ここ2週間、車のことで、ハラハラドキドキしていたのに、おしまいはこうもあっけないのだった。

心を軽くして、DMVへ付いてきてくれたルームメートとトーランスの日本料理屋「稲葉」へ行った。本格的な寿司やてんぷら、麺が食べられるので有名な店という。

ふと壁にかかったポスターを見ると、今日は「土用の丑」。カリフォルニアの夏は一ヵ月前と代わり映えしないのに、いつの間にか夏真っ盛りだった。日本の酷暑を思いながら、原産地不明のウナギを食べた。タレは甘かったが、柔らかい身、懐かしいウナギの味。エネルギー充填である。

LA生活のエンジンがかかり始めた。

          トーランスのDMV(上)、「稲葉」のウナギ。山椒つき(下)

2011年7月18日月曜日

19 お楽しみは少し先

 自動車免許の実技試験に落ちた。それも、最後の最後にミスをして。実技試験では、諸々のチェック項目のうち、16ヵ所以上ミスがあったら、試験に落ちる仕組みだが、私の場合、減点は4点で結構いい線をいっているはずだった。それなのに・・・。

 試験を受けたのは、日本人の多い街トーランスの「DMV」と呼ばれるアメリカ版陸運局。近所にあるサンタ・モニカのDMVは試験官が日本人に非常に厳しく、一発で受かるのは至難の業と聞いていたので、人から勧められ、わざわざ日本人が受かりやすい街を選び、片道1時間もかけて出かけたのだった。

 ただ、予兆はあった。実技試験を教えてくれるメイさんからは、これまで運転についてかなりお褒めの言葉を頂いていたが、今日は試験前の練習で致命的なミスを3回も犯し、「どうしたの」と不思議がられていたから。自分で言うのも何だが、かなり度胸はあるので、まさか、運転免許でそんなにたじろぐとは思ってもみなかった。

 試験は受験者が持ち込む車で行われる。私の場合はメイさんの車で到着。ワイパーやウィンカー、ブレーキ、ハザードランプなど車の仕組みや手信号が理解できているかチェックされ、その後、試験官を乗せて公道を約20分間運転。道中の内容を採点され、その場で合否が下される。

その20分間は、かなり気持ちよく運転できていたのだ。しかし、DMVまで後一歩というところで、魔の「四方向一旦停止交差点」がやってきた。この交差点は、一旦停止サインが全方向についていれば、停止後、到着した車から進行するという四差路。日本にないルールで、かなり苦手だったが、練習で慣れたはずだった。

ところがである。その交差点には私が最初に到着したため、停止後、左折して、DMVへ向かおうとしていたところ、右前方から、結構なスピードを出して走ってくる車が見えた。向こうは直進、こちらは左折。そうなのだ。一瞬、日本の「直進優先」の癖が出て、向こうが停まってくれない気がして止まってしまったのだ。

交差点内で止まるのは重大なミス。こうした類のミスは1回で万事休すとなる。「交差点をもっと練習してくださいね」と試験官はにっこり笑って「Unsatisfactory」にチェックし、試験は終わった。

DMVで、ハラハラしながら結果を待ってくれていたメイさんからは、不合格を告げるや、「なんであなたが落ちるのよー」と叱られた。

その日、悔しさの余り、メイさんと別れ、DMVからバスで帰った。車窓に広がる景色を眺めながら、乗り換えで立ち寄った吉野屋でLA初の牛丼を食べ、合気道に行って心を落ち着けた。

長い目で見ればこれでよかったのだろう。すんなり通らなかったおかげで、苦手な「魔の四差路」は通るたび、苦々しい思いで注意するだろうから。

 その翌日、待ちに待ったえエクボ付きの愛車はやってきた。「みなさ~ん、ヨーコの車がきましたよ。見に行きましょう」。大家さんのその掛け声で、大家さん夫婦と最近やってきた他の日本人ルームメートが一斉に玄関扉を開けた。

 LA生活の相棒が、日の目を見るのはもうすぐそこ(のはず。今週後半に追試験)。

                「エクボ」は反対側で見えません

2011年7月14日木曜日

18 愛車はエクボつき

 前回に続き、今回は愛車購入編。

ついに、車を買った。自動車免許の実技訓練は、業者に毎回2時間80ドル払い、業者の車で練習してきたが、そんなことを続けていたら、日本の教習所並みの額になり兼ねない。というわけで、一通り教わってある程度自信がついた後は、友達に同乗してもらって教わることにした。しかし、問題はどの車に乗るか。万一友人の車で事故に遭ったら大変なことになる。

レンタカーを検討したが、インターネットで調べたところ、一日7ドルほどの超安い会社は随分先まで予約がぎっしり。その日に借りられる会社は1週間単位でないと借りられなかったり、保険代がやたらと高かったりして、日本のようにふらっと行って貸してもらうわけにはいかないらしい。

そのうち、どうせ自分の車を買って保険もつけるのだから、自分の車で練習すればいいじゃないか、という結論に到達。早速、車を買いに行くことにした。

 向かった先は片道1時間ほどのオレンジ郡にある「ガリバー」。日本国内で有名な中古車販売店の現地法人で、少し前までは、日本人が多く住むトーランスにもあったそうだが、今は店を閉めていて、今回は店員さんに店までの送迎をお願いすることにした。

到着すると、店には日本でもおなじみの旗がはためいており、店構えは日本の「ガリバー」そのものだ。

少し古いデータ(2005年)だが、日本自動車工業会によれば、米国における日本車のシェアは41.2パーセントだそうな。しかし、ことカリフォルニア州に至っては、通りで見かける車の半数以上は日本車だ。そういう事情もあってか、この店では、トヨタやホンダ、日産、マツダなど日本車が目に付いた。

さて、条件にあう車で見せてもらったのは7、8台。そのうち、少し心が揺れた車があった。シルバーのBMVだ。いわずもがな、高級車の代名詞である。ところが、こちらでは、近所のレストランに、かなりBMWが停まっていたりするから、不思議だった。ところが、店の担当者は「BMWって頑丈だから、夫が、追突の被害を恐れて妻に買ってあげる車ってイメージしかないですよ」という。日本とは随分印象が違うもんだ。

値段を見ると、100万円もしない。全般的に米国では、中古車を売り払う際、日本のような値崩れをしないから、トータル的には、数万円から数十万円でBMVライフが送れるかもしれない。普段ブランドには全く興味がないが、一生に一度、BMVもいいな。心はグラグラ。

ところが、走行距離を見て諦めた。20万キロ近くも走っていたから。日本なら、とっくに御用済みの車である。こちらの人からは「アメリカじゃ10万キロなんて、まだ新車みたいなもんよ」と軽く言うが、8万キロ台の車を「乗り倒した」と思って売り払った私に、このマイレージは未知の領域なのだった。周囲を見渡すと、結構、15万キロが並んでいたから、国土が広大なこの国では、走行距離の桁が日本と違うのはよく分かるのだけれど。試乗で感触を満喫し、わずか10分でBMVライフは終わった。

と、つらつら書き綴ったが、結局、フォルクスワーゲンの真っ赤な「Golf」(2003年型)を買った。走行距離は13万3000キロ。一切合財で9000ドルだった。デザインが気に入ったのが一番だが、人気車なので、帰国時、うまくいけば、買ったときとそう変わらない額で買い取ってもらえるかもしれないと思ったのだ。

ヘッドライトの右側上部に野球の球が当たったようなくぼみがある。「へこんでますね」と言ったら、店員さんは苦笑して「エクボと思ってください」と返してきた。ものは言いようだが、ま、「エクボつきの愛車」か。走行に全く影響はないし、響きがいいので、よしとしよう。

車は点検を終えてから納車されることになり、その日は下宿に帰り、13日夕方の到着を待つことに。家に帰って大家さんと話していたら、「赤い車は警察に捕まりやすいのよ。データがあるくらいなんだから」と恐ろしいことを言われてしまった。

「警察の赤車マーク説」について真偽のほどは不明だが、一層安全運転に気をつけることになるから、かえって安心かも、と思うことにする。というより、合気道とインタビュー以外、そんなに乗るんだろうか。依然バス派だから。

13日の水曜日夕方に納車と決まり、ブログで写真を載せるつもりだったので、更新がズレていました。しかし、結局、納車は最速で16日以降に変更されました。また、車が来たら、紹介します。ただ、写真がないと物足りないので、今回は本文と関係のない、世界最大級のLAにあるヨットハーバー「マリナ・デル・レイ」でお許しを。またも、バスで行きましたが、かなりおしゃれなマリーナだったので、今度は自分の車で行くかも。あれっ、車買ったら、やはり、いろんなところへ出没するかも。

            写真を撮りながら、「金曜ロードショー」のオープニングソングを思い出した

            念のため、音楽は以下の通り(YouTubeで音が出ます)

        http://www.youtube.com/watch?v=ANSxeTTGC_E&feature=related