私が担当したのは真ん中の女性が叩いているゴングを一回り小さくしたもの |
赤のテントは諸々の屋台。移動式遊園地なのに大型遊具が多かった |
持ち寄った椅子でリラックスしながら演奏に聞き入る来場者 |
私が担当したのは真ん中の女性が叩いているゴングを一回り小さくしたもの |
赤のテントは諸々の屋台。移動式遊園地なのに大型遊具が多かった |
持ち寄った椅子でリラックスしながら演奏に聞き入る来場者 |
コスタメサの「カリフォルニア・シナリオ」 |
さて、その試験はというと、雪辱戦ということもあって、同じ木曜日の同じ10時半に予約。家からはルームメートに運転してもらい、トーランスという街のアメリカ版陸運局DMVへ出かけた。前回はかなり愛想のいい試験官だったが、今度は少し無愛想で、ちょっと手ごわそうな予感である。
試験が始まると、コースこそ先週と似ていたが、右左折や車線変更、苦手な四方向一旦停止交差点を前以上に挑戦させられた。時間にすれば15分弱、前回より短かったはずだが、チェックは厳しくなっていた印象だ。開始前、試験官は「2回目ですね」と聞いてきたから、向こうも警戒していたのだろうか。
一通り試験が終わり、DMVへ帰ってきてから採点が始まった。試験官は、「あなた、アクセルを踏むとき、少し急ですよ。もっとゆっくり踏まないと」と言って、助手席で、何やら書いては、減点項目にチェックし始めた。それも前以上にチェックが多い。ただ、減点は15点までOKだからそれ自体は問題ない。しかし、そのチェック箇所が問題である。致命的なミスに再びチェックされれば元の木阿弥。チェックの内容はこちらから見えないが、どうやらペン先は致命傷欄のある左下には向かっていないようだ。しかし、前回より採点に時間がかかっていて、一瞬、「また、追試験か」と一気に緊張が走った。
しかし、一通り書き終えた試験官は、その紙を渡しながら、「それじゃ、合格。窓口にこの紙出しといてね」と言って、また無愛想に車から出て行ったのだった。結局、前の試験では、致命的な1回のミスを除けば減点4点だったが、今回は減点8点。致命傷が見つかれば、その段階で試験はストップらしいから、出発してすぐなら、前回の4点減点はそれ以降加算されなかっただけ、とも思えるが、前回ひっかかったのは、終了間際の交差点だったから、4点以上には増えなかったはず。運転自体、一週間前より慣れたはずなのに。試験官の性格によるのだろうか。前回が甘すぎたのだろうか。
試験官に渡された紙を窓口に提出すると、受付の女性は、A4版の紙をビリッと半分に破り、「これが一時的な免許証。正式な免許証は後日届きますんで、今日はこれで終わり。はい次の人」。DMVに到着してからその間4、50分といったところだろうか。あっさりと、仮の免許証を手にすることができた。ここ2週間、車のことで、ハラハラドキドキしていたのに、おしまいはこうもあっけないのだった。
心を軽くして、DMVへ付いてきてくれたルームメートとトーランスの日本料理屋「稲葉」へ行った。本格的な寿司やてんぷら、麺が食べられるので有名な店という。
ふと壁にかかったポスターを見ると、今日は「土用の丑」。カリフォルニアの夏は一ヵ月前と代わり映えしないのに、いつの間にか夏真っ盛りだった。日本の酷暑を思いながら、原産地不明のウナギを食べた。タレは甘かったが、柔らかい身、懐かしいウナギの味。エネルギー充填である。
LA生活のエンジンがかかり始めた。
トーランスのDMV(上)、「稲葉」のウナギ。山椒つき(下)試験を受けたのは、日本人の多い街トーランスの「DMV」と呼ばれるアメリカ版陸運局。近所にあるサンタ・モニカのDMVは試験官が日本人に非常に厳しく、一発で受かるのは至難の業と聞いていたので、人から勧められ、わざわざ日本人が受かりやすい街を選び、片道1時間もかけて出かけたのだった。
ただ、予兆はあった。実技試験を教えてくれるメイさんからは、これまで運転についてかなりお褒めの言葉を頂いていたが、今日は試験前の練習で致命的なミスを3回も犯し、「どうしたの」と不思議がられていたから。自分で言うのも何だが、かなり度胸はあるので、まさか、運転免許でそんなにたじろぐとは思ってもみなかった。
試験は受験者が持ち込む車で行われる。私の場合はメイさんの車で到着。ワイパーやウィンカー、ブレーキ、ハザードランプなど車の仕組みや手信号が理解できているかチェックされ、その後、試験官を乗せて公道を約20分間運転。道中の内容を採点され、その場で合否が下される。
その20分間は、かなり気持ちよく運転できていたのだ。しかし、DMVまで後一歩というところで、魔の「四方向一旦停止交差点」がやってきた。この交差点は、一旦停止サインが全方向についていれば、停止後、到着した車から進行するという四差路。日本にないルールで、かなり苦手だったが、練習で慣れたはずだった。
ところがである。その交差点には私が最初に到着したため、停止後、左折して、DMVへ向かおうとしていたところ、右前方から、結構なスピードを出して走ってくる車が見えた。向こうは直進、こちらは左折。そうなのだ。一瞬、日本の「直進優先」の癖が出て、向こうが停まってくれない気がして止まってしまったのだ。
交差点内で止まるのは重大なミス。こうした類のミスは1回で万事休すとなる。「交差点をもっと練習してくださいね」と試験官はにっこり笑って「Unsatisfactory」にチェックし、試験は終わった。
DMVで、ハラハラしながら結果を待ってくれていたメイさんからは、不合格を告げるや、「なんであなたが落ちるのよー」と叱られた。
その日、悔しさの余り、メイさんと別れ、DMVからバスで帰った。車窓に広がる景色を眺めながら、乗り換えで立ち寄った吉野屋でLA初の牛丼を食べ、合気道に行って心を落ち着けた。
長い目で見ればこれでよかったのだろう。すんなり通らなかったおかげで、苦手な「魔の四差路」は通るたび、苦々しい思いで注意するだろうから。
その翌日、待ちに待ったえエクボ付きの愛車はやってきた。「みなさ~ん、ヨーコの車がきましたよ。見に行きましょう」。大家さんのその掛け声で、大家さん夫婦と最近やってきた他の日本人ルームメートが一斉に玄関扉を開けた。
LA生活の相棒が、日の目を見るのはもうすぐそこ(のはず。今週後半に追試験)。
「エクボ」は反対側で見えません
ついに、車を買った。自動車免許の実技訓練は、業者に毎回2時間80ドル払い、業者の車で練習してきたが、そんなことを続けていたら、日本の教習所並みの額になり兼ねない。というわけで、一通り教わってある程度自信がついた後は、友達に同乗してもらって教わることにした。しかし、問題はどの車に乗るか。万一友人の車で事故に遭ったら大変なことになる。
レンタカーを検討したが、インターネットで調べたところ、一日7ドルほどの超安い会社は随分先まで予約がぎっしり。その日に借りられる会社は1週間単位でないと借りられなかったり、保険代がやたらと高かったりして、日本のようにふらっと行って貸してもらうわけにはいかないらしい。
そのうち、どうせ自分の車を買って保険もつけるのだから、自分の車で練習すればいいじゃないか、という結論に到達。早速、車を買いに行くことにした。
向かった先は片道1時間ほどのオレンジ郡にある「ガリバー」。日本国内で有名な中古車販売店の現地法人で、少し前までは、日本人が多く住むトーランスにもあったそうだが、今は店を閉めていて、今回は店員さんに店までの送迎をお願いすることにした。
到着すると、店には日本でもおなじみの旗がはためいており、店構えは日本の「ガリバー」そのものだ。
少し古いデータ(2005年)だが、日本自動車工業会によれば、米国における日本車のシェアは41.2パーセントだそうな。しかし、ことカリフォルニア州に至っては、通りで見かける車の半数以上は日本車だ。そういう事情もあってか、この店では、トヨタやホンダ、日産、マツダなど日本車が目に付いた。
さて、条件にあう車で見せてもらったのは7、8台。そのうち、少し心が揺れた車があった。シルバーのBMVだ。いわずもがな、高級車の代名詞である。ところが、こちらでは、近所のレストランに、かなりBMWが停まっていたりするから、不思議だった。ところが、店の担当者は「BMWって頑丈だから、夫が、追突の被害を恐れて妻に買ってあげる車ってイメージしかないですよ」という。日本とは随分印象が違うもんだ。
値段を見ると、100万円もしない。全般的に米国では、中古車を売り払う際、日本のような値崩れをしないから、トータル的には、数万円から数十万円でBMVライフが送れるかもしれない。普段ブランドには全く興味がないが、一生に一度、BMVもいいな。心はグラグラ。
ところが、走行距離を見て諦めた。20万キロ近くも走っていたから。日本なら、とっくに御用済みの車である。こちらの人からは「アメリカじゃ10万キロなんて、まだ新車みたいなもんよ」と軽く言うが、8万キロ台の車を「乗り倒した」と思って売り払った私に、このマイレージは未知の領域なのだった。周囲を見渡すと、結構、15万キロが並んでいたから、国土が広大なこの国では、走行距離の桁が日本と違うのはよく分かるのだけれど。試乗で感触を満喫し、わずか10分でBMVライフは終わった。
と、つらつら書き綴ったが、結局、フォルクスワーゲンの真っ赤な「Golf」(2003年型)を買った。走行距離は13万3000キロ。一切合財で9000ドルだった。デザインが気に入ったのが一番だが、人気車なので、帰国時、うまくいけば、買ったときとそう変わらない額で買い取ってもらえるかもしれないと思ったのだ。
ヘッドライトの右側上部に野球の球が当たったようなくぼみがある。「へこんでますね」と言ったら、店員さんは苦笑して「エクボと思ってください」と返してきた。ものは言いようだが、ま、「エクボつきの愛車」か。走行に全く影響はないし、響きがいいので、よしとしよう。
車は点検を終えてから納車されることになり、その日は下宿に帰り、13日夕方の到着を待つことに。家に帰って大家さんと話していたら、「赤い車は警察に捕まりやすいのよ。データがあるくらいなんだから」と恐ろしいことを言われてしまった。
「警察の赤車マーク説」について真偽のほどは不明だが、一層安全運転に気をつけることになるから、かえって安心かも、と思うことにする。というより、合気道とインタビュー以外、そんなに乗るんだろうか。依然バス派だから。
*13日の水曜日夕方に納車と決まり、ブログで写真を載せるつもりだったので、更新がズレていました。しかし、結局、納車は最速で16日以降に変更されました。また、車が来たら、紹介します。ただ、写真がないと物足りないので、今回は本文と関係のない、世界最大級のLAにあるヨットハーバー「マリナ・デル・レイ」でお許しを。またも、バスで行きましたが、かなりおしゃれなマリーナだったので、今度は自分の車で行くかも。あれっ、車買ったら、やはり、いろんなところへ出没するかも。
写真を撮りながら、「金曜ロードショー」のオープニングソングを思い出した
念のため、音楽は以下の通り(YouTubeで音が出ます)
http://www.youtube.com/watch?v=ANSxeTTGC_E&feature=related
しかし、しかし・・・。先日、インタビュー先へバスで行こうとパソコンで経路を検索していたら、ミスターGoogleは、乗り換え4回、所要時間に至っては片道6時間4分とご教示くださるのだった。以前も、3時間近くかかると知ってインタビューを保留にしたままのところがある。今度はどうしても行きたい場所。いくらバス好きでも、ここまでかかると限界である。国際免許は持ってきたが、こちらの運転免許を取らないといろいろ不都合があると聞き、観念して免許を取り、車を買うことにした。
幸い、日系スーパーで無料配布している電話帳に免許の試験問題が載っていたので、それを一通り頭に入れ、「DMV」と呼ばれるアメリカ版陸運局みたいなところで、筆記試験を受けることにした。試験は全部で36問中31問以上解ければパス。日本の試験より、簡単な印象で、幸いすんなりと実技試験のステップへ進むことができた。
しかし、その実技が曲者だ。10年以上日本で運転してきたから、日本の交通規則が身についてしまっている。アメリカの車両は右側通行で、距離もすべてマイル表示。右折時は禁止の看板がない限り、信号の色にかかわらず曲がれる。さらに、信号の変わり目などに交差点に入ってしまったものの、他の車が動かずに立ち往生して通行の邪魔になったら、高額の罰金が取られることもある。頭で理解したつもりでも、体で覚えているかは別である。
さらに、日本と違って教習所に通う必要もないから、わずかな勉強で筆記試験をすり抜けたことが、かえって恐怖を呼び、実技試験用の個人指導をお願いすることにした。
予想通り、運転していると日本の癖が出そうになる。日本人の代表的な間違い例とされる右左折時のウィンカー操作。左側通行の日本では、運転席の右側にウィンカーがあるから、意識していないと、曲がる際、無意識に右側のワイパーを触ってしまい、窓を磨くことになる。その右折も、一旦停止した後曲がり始めたら、さっさと曲がらなければならないのに、かな~りゆっくり曲がろうとする。そのたび、先生から「停まったら、周囲の迷惑になってクラクション鳴らされるよ」と脅かされ、実際、鳴らされたりもした。
私がこんなに右側通行にビビッているというのに、こっちで知り合った韓国人や台湾人の友達は、「免許なんてちょろい」と涼しい顔だ。おいおい、皆さんは右側通行国から来ているじゃないか。皆さんだって、日本で運転するとなったら大変な目に遭うんだからね。
それにしても、何で日本の車両は国際標準の右側通行にしなかったのか。先達が恨めしい。
ちなみに、実技試験は来週か再来週の予定(パソコンで予約を入れる仕組み)。また報告します。
私の客員研究員という立場はかなり自由で、しかも理系と違って実験もないので、強制的に顔を合わす人はほとんどいない。研究室へ行けば、フランス人のポールさんに会って話しはするが、パソコンと向き合っている時間が圧倒的だし、ポールさんも家族サービスや研究旅行で時々お休みする。
学生たちは授業に顔を出しても、授業が終われば蜘蛛の子を散らすように一斉に次の授業や図書館、自宅へと急ぐので、のんびりお茶でも、という雰囲気でもない。一足先に他大学で研究している友人からは、「客員研究員は結構孤独なので、仲間作りで空手を始めました」とも聞いていた。そこで、念のため、日本から胴着を持ってきていたのだった。
幸い、普段の生活で顔見知りが結構できて、孤独を感じることはほとんどないが、定期的に現地の人と会って話す機会を持ちたかったので、道場に通うことにした。
日本で合気道をやっていたのは10年以上前。それも半年か1年くらいの短期間不真面目に通っただけだった。「ま、技は一通り習ったから、少しは体が覚えているだろう」と高をくくっていたが、そうは問屋が卸さなかった。当時より、肉がかなり横に伸び、胴着自体ちんちくりんになって動きにくい上、技はすでに忘却の彼方にあった。
「技は駄目でも、日本の武術だから日本語を話して喜ばれる場面もあるだろう」と期待していたものの、使われるのは「ukemi(受身)」「hanmi(半身)」「rei(礼)」くらい。日系2世の師匠は日本語が話せず、毎回10人ほどやってくる生徒の中に日系人はいるが、やはり日本語の出番はないようだ。
普段、英語のインタビューや授業で人に話しを聞く際、ある程度、何について話をするか前提を理解した上、想像を働かせながら会話を先読みするから、何とか聞き取ることができる。しかも相手が拒まない限り、レコーダー付きなので、帰宅後聞きおなしもできる。
ところが、この道場では、一対一で教えてくれる先輩たちが微妙なニュアンスを早口で容赦なく浴びせかけてくる上、前提や想像なしに理解しなければならないので、合気道に通っているというより、英会話道場に通っている感じ。
先々週など、教えてくれた先輩が早口でしゃべっていて動きがつかめなかったところ、「何で分からないの。僕の説明が悪いかなぁ」と呆れられた。しかし、何度も何度も同じ動きを、フレーズを言い換えながら教えてくれたので、微妙な言い回しがすんなり耳に入った。どこの国でも、子供というのは、こうやって言葉を覚えていくのだろう。
この先輩は、技がうまくいかないと、時折、ため息までこぼして、グサッと来るが、うまくできれば、目をキラキラさせて「There you go」を連発する。「できたじゃないか」「そら、その調子」の意味。そんな超基本的な単語、教科書や熟語本じゃ、出てこなかった気がする。
週末なら、終わった後、ほっと一息ついてみんなで話したり、誰かがスイカを持ってきてくれたりする。ワイワイ話して学ぶ英会話教室(彼らには合気道教室)。
机の上で英語を学ぶのもいいが、趣味を通して学ぶ言葉は確実に身に付きやすい。というわけで、当分、この道場通いも続きそう。かなり汗をかいて痩せるし。
床はマット。日本の道場では使わなかった木刀を結構使う
典型的な過ごし方は、友達や家族とバーベキューをして、パレードや一年間でこの日だけ許される花火を、みんなで見物することらしい。
知り合いが、パサディナでバーベキューをすることになっていたので、参加させてもらったところ、会場となった公園には目当てのグループ以外にも家族連れやグループがいたが、やはりどの集団も主役はバーベキュー。生バンドの演奏もよかったが、一帯には肉の煙と匂いが漂い、老いも若きもテーブルを囲んで肉や果物をほおばり、満面の笑顔だ。
すぐそばの水遊び場では、子供たちが水しぶきを浴びてはしゃぎまわり、それを大人たちが目を細めながら眺めていた。気候こそ全くことなれど、日本の花見を髣髴とさせるのどかな夏の一日だった。
そして夜、再びハリウッドボウル。目玉はお待ちかね、ロサンゼルス交響楽団の演奏に合わせて打ち上げられる花火である。日本の花火とは決定的にスピード感が違う。何といっても演奏がマーチなのだから。矢継ぎ早に打ち上げられ、「た~まや~、か~ぎや~」などと情緒にひたっている場合ではなかった。
会場には前回のコンサートとは打って変わって愛国精神がぎっしり詰まっていた。星条旗をあしらったTシャツやバンダナを身につけた人がいるかと思えば、友達が持ってきてくれたバドワイザーも、デザインはこの日専用の星条旗。国歌斉唱から始まり、海軍や空軍など軍隊への敬意がアナウンスされるや、会場からは拍手喝采が上がり、花火のクライマックスに使われた曲はズバリ「星条旗よ永遠なれ」。終盤、再びみんなが口ずさんでいたのも「ゴッド・ブレス・アメリカ」だった。右翼の集まりではない。ごく普通の市民が集まる人気イベントなのに、ふたを開けみればそこは「こんなにアメリカって素晴らしい国なのだ」と自画自賛する場に見えた。
花火に目を輝かせている人を見ながら、ようやくここ数日間感じてきたモヤモヤの理由が分かってきた。そのモヤモヤとは、「何でアメリカ人はこんなにフォース・オブ・ジュライが好きなのか」。日本なら建国記念日を知らない若者だっているだろうに。イベントを通じ、行き着いた答えは、この日には、アメリカ人である喜びを再確認する仕掛けが詰まっている、というものだった。
日本と違って移民大国のこの国は、多くが、自由を求め、自ら望んでこの国の一員になった人やその子孫(アフリカン・アメリカンやネイティブ・アメリカンは除く)である。普段の生活の中で、アメリカの永住権を得ようとしている外国人も日常的に見てきているだろう。アメリカ国民であることを誇りに思う土壌はある。
そこへきて、バーベキューを通じた家族や友達との語らいや荘厳な花火、街中で繰り広げられパレードやイベント・・・。楽しい記憶とアメリカ人の誇りがセットになり、この独立記念日を殊更愛するムードにつながっているように思えてきた。そしてまた、星条旗や国歌がその喜びを国民で共有する装置になっている、とも。
この国だってベトナム戦争やイラク戦争では星条旗の下、多くの人が命を落とした。国旗や国歌に違和感を感じている人だっているだろうに。彼らはこの日、どんな思いで何をして過ごしているのだろう。
マーチに合わせて矢継ぎ早に打ち上げられる花火