2011年7月11日月曜日

17 車社会に参戦

 アメリカは言わずと知れた車社会である。だから、ロサンゼルス到着直後、すぐにでもこちらの免許を取るつもりだったが、来て2週間後、大家さんがひき逃げ事故で重傷を負い、家のすぐ近くでも追突事故を見たので、急に怖くなって先延ばしにしていた。駐車場を気にせず、車窓の景色もじっくり楽しめるバスライフは新鮮だったし、何より気取らぬ市民の生活を間近で見物できるのが楽しかった。

 しかし、しかし・・・。先日、インタビュー先へバスで行こうとパソコンで経路を検索していたら、ミスターGoogleは、乗り換え4回、所要時間に至っては片道6時間4分とご教示くださるのだった。以前も、3時間近くかかると知ってインタビューを保留にしたままのところがある。今度はどうしても行きたい場所。いくらバス好きでも、ここまでかかると限界である。国際免許は持ってきたが、こちらの運転免許を取らないといろいろ不都合があると聞き、観念して免許を取り、車を買うことにした。

 幸い、日系スーパーで無料配布している電話帳に免許の試験問題が載っていたので、それを一通り頭に入れ、「DMV」と呼ばれるアメリカ版陸運局みたいなところで、筆記試験を受けることにした。試験は全部で36問中31問以上解ければパス。日本の試験より、簡単な印象で、幸いすんなりと実技試験のステップへ進むことができた。

しかし、その実技が曲者だ。10年以上日本で運転してきたから、日本の交通規則が身についてしまっている。アメリカの車両は右側通行で、距離もすべてマイル表示。右折時は禁止の看板がない限り、信号の色にかかわらず曲がれる。さらに、信号の変わり目などに交差点に入ってしまったものの、他の車が動かずに立ち往生して通行の邪魔になったら、高額の罰金が取られることもある。頭で理解したつもりでも、体で覚えているかは別である。

さらに、日本と違って教習所に通う必要もないから、わずかな勉強で筆記試験をすり抜けたことが、かえって恐怖を呼び、実技試験用の個人指導をお願いすることにした。

予想通り、運転していると日本の癖が出そうになる。日本人の代表的な間違い例とされる右左折時のウィンカー操作。左側通行の日本では、運転席の右側にウィンカーがあるから、意識していないと、曲がる際、無意識に右側のワイパーを触ってしまい、窓を磨くことになる。その右折も、一旦停止した後曲がり始めたら、さっさと曲がらなければならないのに、かな~りゆっくり曲がろうとする。そのたび、先生から「停まったら、周囲の迷惑になってクラクション鳴らされるよ」と脅かされ、実際、鳴らされたりもした。

私がこんなに右側通行にビビッているというのに、こっちで知り合った韓国人や台湾人の友達は、「免許なんてちょろい」と涼しい顔だ。おいおい、皆さんは右側通行国から来ているじゃないか。皆さんだって、日本で運転するとなったら大変な目に遭うんだからね。

それにしても、何で日本の車両は国際標準の右側通行にしなかったのか。先達が恨めしい。

ちなみに、実技試験は来週か再来週の予定(パソコンで予約を入れる仕組み)。また報告します。

2011年7月8日金曜日

16 There you go!

6月から合気道教室に通い始めた。

私の客員研究員という立場はかなり自由で、しかも理系と違って実験もないので、強制的に顔を合わす人はほとんどいない。研究室へ行けば、フランス人のポールさんに会って話しはするが、パソコンと向き合っている時間が圧倒的だし、ポールさんも家族サービスや研究旅行で時々お休みする。

学生たちは授業に顔を出しても、授業が終われば蜘蛛の子を散らすように一斉に次の授業や図書館、自宅へと急ぐので、のんびりお茶でも、という雰囲気でもない。一足先に他大学で研究している友人からは、「客員研究員は結構孤独なので、仲間作りで空手を始めました」とも聞いていた。そこで、念のため、日本から胴着を持ってきていたのだった。

幸い、普段の生活で顔見知りが結構できて、孤独を感じることはほとんどないが、定期的に現地の人と会って話す機会を持ちたかったので、道場に通うことにした。

 日本で合気道をやっていたのは10年以上前。それも半年か1年くらいの短期間不真面目に通っただけだった。「ま、技は一通り習ったから、少しは体が覚えているだろう」と高をくくっていたが、そうは問屋が卸さなかった。当時より、肉がかなり横に伸び、胴着自体ちんちくりんになって動きにくい上、技はすでに忘却の彼方にあった。

「技は駄目でも、日本の武術だから日本語を話して喜ばれる場面もあるだろう」と期待していたものの、使われるのは「ukemi(受身)」「hanmi(半身)」「rei(礼)」くらい。日系2世の師匠は日本語が話せず、毎回10人ほどやってくる生徒の中に日系人はいるが、やはり日本語の出番はないようだ。

普段、英語のインタビューや授業で人に話しを聞く際、ある程度、何について話をするか前提を理解した上、想像を働かせながら会話を先読みするから、何とか聞き取ることができる。しかも相手が拒まない限り、レコーダー付きなので、帰宅後聞きおなしもできる。

ところが、この道場では、一対一で教えてくれる先輩たちが微妙なニュアンスを早口で容赦なく浴びせかけてくる上、前提や想像なしに理解しなければならないので、合気道に通っているというより、英会話道場に通っている感じ。

先々週など、教えてくれた先輩が早口でしゃべっていて動きがつかめなかったところ、「何で分からないの。僕の説明が悪いかなぁ」と呆れられた。しかし、何度も何度も同じ動きを、フレーズを言い換えながら教えてくれたので、微妙な言い回しがすんなり耳に入った。どこの国でも、子供というのは、こうやって言葉を覚えていくのだろう。

この先輩は、技がうまくいかないと、時折、ため息までこぼして、グサッと来るが、うまくできれば、目をキラキラさせて「There you go」を連発する。「できたじゃないか」「そら、その調子」の意味。そんな超基本的な単語、教科書や熟語本じゃ、出てこなかった気がする。

 週末なら、終わった後、ほっと一息ついてみんなで話したり、誰かがスイカを持ってきてくれたりする。ワイワイ話して学ぶ英会話教室(彼らには合気道教室)。

机の上で英語を学ぶのもいいが、趣味を通して学ぶ言葉は確実に身に付きやすい。というわけで、当分、この道場通いも続きそう。かなり汗をかいて痩せるし。

         床はマット。日本の道場では使わなかった木刀を結構使う

2011年7月6日水曜日

15 「アメリカ人」の日

 7月4日、「フォース・オブ・ジュラィ」はアメリカで特別な一日である。200年以上も前に独立宣言が交付された記念日だが、ハリウッド映画に『7月4日に生まれて』というのがあるほど、アメリカ人のこの日にかける思いは並々ならぬものがある。独立記念日は祝日になっていて、先週から会う人ごとに「7月4日はどうするの」と聞かれてきた。

典型的な過ごし方は、友達や家族とバーベキューをして、パレードや一年間でこの日だけ許される花火を、みんなで見物することらしい。

 知り合いが、パサディナでバーベキューをすることになっていたので、参加させてもらったところ、会場となった公園には目当てのグループ以外にも家族連れやグループがいたが、やはりどの集団も主役はバーベキュー。生バンドの演奏もよかったが、一帯には肉の煙と匂いが漂い、老いも若きもテーブルを囲んで肉や果物をほおばり、満面の笑顔だ。

すぐそばの水遊び場では、子供たちが水しぶきを浴びてはしゃぎまわり、それを大人たちが目を細めながら眺めていた。気候こそ全くことなれど、日本の花見を髣髴とさせるのどかな夏の一日だった。

 そして夜、再びハリウッドボウル。目玉はお待ちかね、ロサンゼルス交響楽団の演奏に合わせて打ち上げられる花火である。日本の花火とは決定的にスピード感が違う。何といっても演奏がマーチなのだから。矢継ぎ早に打ち上げられ、「た~まや~、か~ぎや~」などと情緒にひたっている場合ではなかった。

会場には前回のコンサートとは打って変わって愛国精神がぎっしり詰まっていた。星条旗をあしらったTシャツやバンダナを身につけた人がいるかと思えば、友達が持ってきてくれたバドワイザーも、デザインはこの日専用の星条旗。国歌斉唱から始まり、海軍や空軍など軍隊への敬意がアナウンスされるや、会場からは拍手喝采が上がり、花火のクライマックスに使われた曲はズバリ「星条旗よ永遠なれ」。終盤、再びみんなが口ずさんでいたのも「ゴッド・ブレス・アメリカ」だった。右翼の集まりではない。ごく普通の市民が集まる人気イベントなのに、ふたを開けみればそこは「こんなにアメリカって素晴らしい国なのだ」と自画自賛する場に見えた。

花火に目を輝かせている人を見ながら、ようやくここ数日間感じてきたモヤモヤの理由が分かってきた。そのモヤモヤとは、「何でアメリカ人はこんなにフォース・オブ・ジュライが好きなのか」。日本なら建国記念日を知らない若者だっているだろうに。イベントを通じ、行き着いた答えは、この日には、アメリカ人である喜びを再確認する仕掛けが詰まっている、というものだった。

日本と違って移民大国のこの国は、多くが、自由を求め、自ら望んでこの国の一員になった人やその子孫(アフリカン・アメリカンやネイティブ・アメリカンは除く)である。普段の生活の中で、アメリカの永住権を得ようとしている外国人も日常的に見てきているだろう。アメリカ国民であることを誇りに思う土壌はある。

そこへきて、バーベキューを通じた家族や友達との語らいや荘厳な花火、街中で繰り広げられパレードやイベント・・・。楽しい記憶とアメリカ人の誇りがセットになり、この独立記念日を殊更愛するムードにつながっているように思えてきた。そしてまた、星条旗や国歌がその喜びを国民で共有する装置になっている、とも。

この国だってベトナム戦争やイラク戦争では星条旗の下、多くの人が命を落とした。国旗や国歌に違和感を感じている人だっているだろうに。彼らはこの日、どんな思いで何をして過ごしているのだろう。

         マーチに合わせて矢継ぎ早に打ち上げられる花火

2011年7月2日土曜日

減量もまた楽し

 「熊のような体型の日本人が行きますから」。インタビューで見知らぬ人と待ち合わせをするときは、必ずそう言って自己紹介して おく。カフェなどで待ち合わせをしたとき、すぐに見つけてもらうためだ。しかし、実際、彼らに会ってみると、何人かから「何で熊って言うんですか。そんなに太ってないのに」と本気で不思議がられた。

お世辞と思うこと なかれ。私を知る人なら、驚くかもしれないが、こちらでは私は「(大)熊」ではないのだ。確かに、車がないので毎日結構歩いているから、こちらに来て、少しはやせた。しかし、非常にやせたわけではない。それでも、ロサンゼルスの「熊」は日本で言うなら「鯨」なのであった。

 皆とにかくよく食べる。日本人の優に倍だ。それも高カロリーのものを。それで太らないはずがない。一方で、何でそんなに細いのか、と思う人もいて、学内の食堂でスレンダーな女性を見つけたら、少し観察することにした。すると、彼女らは量こそ洗面器くらいだが、サラダや果物ばかり食べているのに気がついた。

 そんな若い娘たちに張り合うつもりは毛頭ない。ないが、彼女たちと同様の食生活を体験して標準体重を手に入れてみたくなり、炭水化物を控え、努めて野菜と果物を摂取することにした。日本で数年前はやった炭水化物ダイエットもどきである。

しかし残酷にも、この国はまた、炭水化物大国でもあった。ハンバーガーにパスタ、ピザにSushi(寿司ですね。こちらではかなり一般的)。こうした炭水化物を取らなくなると、一気に食べるものがなくなった。学内では、選ぶ のに困るほど野菜が並んだサラダバーを発見したため、ランチはそこでしのぐことができる。しかし、学外へ出た瞬間、食べられるものが激減し、途方に暮れる ことも度々だ(ハリウッドボウルでどら焼きを食べたのは久しぶり)。

 しかし、新たな出会いもあった。先日、研究のためコリアタウンにあるフィリピン領事館へ行った帰り、すぐ近くで女性たちが目 を輝かしているフルーツスタンドを見つけた。時、折しもお昼時。これまでなら、昼ごはんといえば肉や魚が中心で、果物尽くしには目もくれなかったが、いま 食べられるのは野菜と果物しかない。そこで、スタンドの前で、果物をぶつ切りにしているお姉さんを珍しそうに見ていたら、いろいろ説明してくれた女性客が 私の分をこっそり払って立ち去っていた。それも私に分からないようにスペイン語でオーダーして。何ておしゃれな人だろう。ちなみに、リンゴが丸々3つくらい入りそうな小型容器サイズで4ドル、6つくらいなら5ドルだった。

そのフルーツボウルは、目の前で切られたパパイヤやスイカ、オレンジなど10種類のてんこもりだったが、客を見ていると、味付けに、ライムの絞り汁に加え、塩やチリパウダー(唐辛子)をまぶしている。甘さと酸っぱさのコンビネーションは分かる。スイカの甘さを引き出すための塩もまぁ、よしとしよう。しかし、チリは・・・。かなりミスマッチな予感 がしたものの、郷に入れば郷に従え。ここはチリ好きのヒスパニックが多いロサンゼルスだもの。

しかし、というかやはりというか、おそるおそる食べたその一口は、甘さと酸っぱさと塩っぱさの全てがチリパウダーに支配された非常に不思議な味だった(注:私は辛いのが苦手。辛いもの好き、ないしはチリを食べ慣れている人にはおいしい一品かも)。

食生活を変えていなかったら、まずは出会わなかったクールな女性の振る舞いや不思議な味付け。ほかにも「五訂日本食品標準成分表」や乾燥果物、煮干のおやつ・・・。通りすぎていた世界で立ち止まれば、知らない世界も見えてくる。生きがいだった「食」の楽しみが遠のいたのはあまりに痛いが、代わりに別の楽しみを探検することにしよう。

かくして、「(大?小?)熊のスリム化プロジェクト」は続く(はず)。

            お昼時、女性客の列ができるフルーツスタンド

         果物の上にかかったチリ。容器の厚みがかなりあった

2011年6月30日木曜日

13 もう少し泣かせて

 今年の春は、研究室で、路上で、そしてバスの車内で、何度も泣きそうになった。言うまでもない。東日本大震災のためだ。だから、人のいるところでは、震災報道のインターネットサイトや新聞は開かないようにしていたほど。

 研修先のサクラメント近郊で3月11日を迎え、その2日後、ロサンゼルスに到着した。20日にロサンゼルスマラソンで給水ボランティアをすることになったが、ランナーの中には日の丸に「日本頑張れ」と書いて走る日本人のほか、欧米系の人の胸にも日の丸に激励のメッセージが。その数も1人や2人ではない。日の丸の是非は別にして、そのメッセージを見るたび、「ありがとう」と叫びながら、何度も胸が熱くなった。

 4月にはバスに乗っていたら、遠方で大型広告に「Pray For Japan」と書かれたメッセージを見つけた。店の宣伝だろうが、CDの広告だろうが、構わなかった。近所のショッピングモールでも同様のメッセージボードを見かけて、またまた心の中で手を合わせながら、涙腺は緩みそうになるのだった。

 そして前回紹介した今月26日のハリウッドボウル。会場では日本の文化紹介があり、七夕用の笹が飾ってあった。「ガンバレ 日本!」「早く日本が復興しますように」「日本復興」と書かれた短冊が風に揺れ、一緒に行ったインドネシア人の友達が不思議そうに見ていたので、「日本では、短冊に願いを込め、七夕に吊るすんだよ。だから、今年はきっと多くの日本人が短冊に・・・」と言いかけて、途中でやめた。振り返ったら、ボトッと涙が落ちそうだったから。

 こんなに涙もろかったっけ、と思うほど、春以降よく泣きそうになったのに、「短冊落涙ギリギリ事件」でふと、泣きかけたのが久しぶりだったことに気づいた。震災から3カ月が過ぎ、ロサンゼルスの街はカリフォルニアの空気のように、震災日本を気遣う空気も乾いてきている。関連の報道もめっきり減った感じ。私にしてみれば、社会の根底を揺るがしかねない大災害だが、こちらの人には、ハイチやニュージランドなど世界各地で発生している大災害の一つであって、それがたまたま友好国で起きたという感じなのだろうか。他の大災害が発生したとき、こちらにいなかったので、比較できないのだけれど。

 人前で泣かされかけるのはたまらないが、まだもう少し、ジーンとさせてくれませんか。ロサンゼルスの街よ。

*うかつにも、12回目でいきなり回数を入れるのを忘れていました。というわけで、今回は13回

                 ハリウッドボウルに飾られていた短冊                 

2011年6月28日火曜日

ハリウッドボウルへ行ってみた

 ハリウッドには野外音楽堂「ハリウッドボウル」というのがある。夏を中心に数々のイベントが開かれる巨大施設で、ウィキペデイアによれば座席数17,376席。これまで、ビートルズなど著名アーティストのコンサートやミュージカルが催され、一度見てみたいと思っていた。26日夜、日本づくしのイベント「ビッグ・イン・ジャパン」に、坂本龍一ら「YMO」がやってくると聞き、出かけてみることにした。

野外ということもあってか、観客は勝手に食べ物を持ち込んでピクニック気分。あまりに大きいので、大型スクリーン4台で大写しにされたアーティストを見ながら、みんなワイングラスを傾け、サンドイッチなどをつまんでいた。私も、友達と日系スーパーで買ったどら焼きをほおばりながら、日本に浸ることにした。

午後7時、太鼓の演奏で幕は開け、ニューヨークを拠点に活動していた音楽ユニットのチボ・マットや女性ロックバンドのバッフォロー・ドーターそして歌舞伎グループなどが次々と現れた。ノリのいい曲が流れると、現地の若者はいきなり立って踊りだす。私が座っていた長いすも、誰かが拍子を取っていたから、座席が終始揺れていた。

お目当てのYMOは午後9時に登場。ステージ上部に時折桜や梅の映像が光線で映し出される中、ほとんどあいさつすることもなく、淡々と演奏を続けた。失礼ながら、YMOについて知っているのは「テクノポリス」と「ライディーン」くらいだったので、「ライディーン、ライディーン」と心の中でつぶやき続けたがなかなか演奏されず、しびれをきらしかけていたら、ようやく、最後の最後になって出てきた。

至るところから歓声が上がり、アメリカでも人気の高さが伺えた。たまたま隣に座っていたアメリカ人青年は「もう、サカモは何てクールなんだい」と心酔している様子。私の周囲でカメラを構える人たちが一段と増えた。座った席はほぼ正面だったが、かなり後ろに座っていたので、大型スクリーンを通さなければ、「教授」(坂本龍一)は米粒くらいにしか見えないのだが。

「ライディーン」の演奏が終わり、それまでほとんど言葉を発しなかった「世界のサカモト」が、ようやく口を開いた。「今日はスペシャルゲストをお招きしました」。その紹介に合わせ、姿を見せたのはオノ・ヨーコだった。

白い帽子と黒いパンツスーツを着た彼女は、登場するや、東日本大震災の被災者支援を熱く語りかけ、直後に身もだえしながら言葉にならない“音”のパフォーマンスを披露した。日本救済活動の一環で彼女が登場しているのだから、演出に日本への思いが練り込まれてはいるはずだが、残念ながら、私にはパフォーマンスと彼女の意図はつながらなかった。声援を送る声が多かったが、中には失笑すら聞こえてきたほど。ただ、それでも、彼女が必死に何かを訴えようとしているのだけは伝わった。彼女はその“1曲”を歌うためだけに現われたのだった。

YMOも歌舞伎も太鼓もよかったが、たった一つの思いを伝えるために遠路はるばる駆けつける人がいて(オノ・ヨーコはニューヨーク在住)、その人に貴重な場を提供するのもハリウッドボウルなのだった。

午後1020分ごろ、YMOがビートルズの「Hello, goodbye」を演奏し、スクリーンがオノ・ヨーコの動きをフォーカスし続けながら、イベントは終了した。

ちなみに、twitter「語録+坂本龍一+YMO」によると、この日YMOが演奏したのは、ファイアークラッカー、behind the mask、京城音楽、体操、Tibetan dance、千のナイフ、東風、ライディーン、Hello, goodbyeなど13曲とか。感触としては、もっと多かった気がするのだけれど。この「つぶやき」によると、この日の映像は後日NHKでも放送されるらしい。


舞台前面左端が「教授」。スクリーンで大写しされている

2011年6月26日日曜日

11 研究室紹介の巻


 少し前に下宿を紹介したので、今回は研究環境を紹介。

 大学や学部によって客員研究員の待遇は大きく異なるが、私の場合、スポンサーになってくれた学部の教授がかなり便宜をはかってくれたため、専用の研究室や名刺、メールボックスのほか、教員専用のラウンジを使う特典ももらった。

名刺はいくつか好きなデザインの中から選べ、250枚(25ドルの有料)単位で注文する。表は日本の名刺とさして変わらないが、裏は大学カラーの水色地に大学の紋章が入っており、一枚の紙の厚みは日本より少し厚め。

研究室は6階建ての5階にある。部屋の窓からハリウッド方面が見えるものの、有名な「HOLLYWOOD」の看板は見えない。眺めがいいとは言えないが、カリフォルニアの青い空が広がっているので、物を考えるときには、結構窓から空を見上げている。

広さは6畳くらいだろうか。同じく客員研究員のフランス人ポールさんと共有し、2人の机のほか、本棚と大型資料ケースがある。しかし、2人とも資料はもっぱらインターネットで読んでいるので、本棚の本はなかなか増える気配がない。

室内に電話器があったが、不通だったので、到着後回線を開いてもらうよう事務にお願いしたところ、数週間して忘れたころ開通した。ただ、インタビュー先とのやりとりはほとんどメールで、有線の電話をほとんど使っていなかったところ、5月に電話しようとしたらまた不通になっていた。別に不便もなく、電話は今も切れたまま。時折携帯電話で話しをしている。ちなみに米国の携帯電話はかかってきた方も支払う仕組み。

インタビューなど用事がなければ、研究室に来る日は大体午前10時くらい。午後6時前後に家やスポーツジムに向かう。授業のない日は家にいてもいいけれど、家ではゴロゴロする可能性が大なのでかなりまめに通っていて、学生のころより大学に来ている感覚だ。

私の学部の場合、研究者の多くは授業がなければ大学に来ない人が多いので、ポールさんと私は、毎日校舎を掃除しているフィリピン系の女性に顔を覚えられ、話をするまでになった。

*突然ですが、以降はタイトルの横に初回からの通し番号をふります

研究室の机。この左側に本棚、背後にポールさんの机がある